あくまで法律のはなし

なぜか福岡で働くことになった弁護士が、なぜか福岡で独立しなければならなくなったブログ

福岡の司法修習生が車のワイパーを折って逮捕

 9月20日付共同通信の記事で読みました。

 酒に酔っていて、何をしたか覚えていないそうです・・・。

 どうなるんでしょうね、この人。

 罷免かな。。

 本当にバカなことをしたものです。

 司法試験に受かって天下でも取った気でいたのでしょうか。

 もう、昔と違って、天下取ったと言えるような試験ではないと思うのですが。。

 そういえば、札幌でタクシー運転手に暴行を働いた弁護士が業務停止1月というのも、今月の「自由と正義」に掲載されていました。

 あれも、たしか、酔っ払っていたのではなかったですかね。

 

 私は、「酒が人を変えるのではない、酒は人の本性を暴く」という考え方を支持しています。自分自身の経験として。

 私の場合、本当に酔っぱらってしまうと、饒舌になるよりも、黙ってしまうことの方が多いんです。普段から、あまりお喋りな方ではなくて、仕事でも、プライベートでも、社会生活のために頑張って喋っているんですが、深く酔うと素に戻ってしまうのだと思っています。ビール1杯~2杯くらいなら、ちょっと陽気になるだけなんですけどね。深酒をした時の自分こそ、真の自分なのかもしれないと思っているんです。

 酒でベロベロに酔ったからといって、セクハラを働いたり、暴言を吐いたりしない人なんていくらでもいます。法的には、アルコールの影響というのは責任能力に関係することもありますが、まあ、ほとんどの場合、言い訳にはならないですよね。

欲しいものから仕事で使うものを除外したらどうなるか

いま、私が欲しいもの

 ・最近出た法律の専門書

 ・新しいスーツ

 ・新しい靴

 ・新しい高級ボールペン

 ・新しい高級万年筆

 ・新しいシステム手帳

 ・新しいパソコン

 ・新しいスマホ

 ・新しいゲーム

 

 ここから仕事で使うものを除外すると。

 ・新しいゲーム

 

 仕事をするのに、パソコンもスマートフォンも、今使っているもので十分です。

 スーツも靴も、それほどボロボロになっているわけではありません。

 高級ボールペンも高級万年筆も必要ありません。

 そういう意味では、これらは趣味性の強いものです。

 ですが、仕事をしていなければ、欲しいと思わないことも確かです。

 そう考えると、純粋にプライベートで欲しい贅沢品というのは限られているようです。

 それとも、仕事こそプライベートと言えるくらい充実しているということでしょうか。

親から受け継ぐのは努力の習慣だけではない。努力の方向性や幸せの条件をも受け継ぐ。

 九州大学箱崎キャンパス放火事件で、焼死体の身元が確認されました。

 9月16日付の西日本新聞の記事によると、九大法学部卒、九大大学院退学の研究職志望の男性(46歳)とのこと。非常勤職を雇止めになり、研究室に寝泊まりし、周囲に経済的困窮を訴えていたということなので、警察は、経済苦を理由に自殺したものと見ています。

 さて、この記事で、気になったのは、次の部分。

 

複数の関係者によると、男性は15歳で自衛官になったが退官し、九大法学部に入学。憲法を専攻し、1998年に大学院に進学した。修士課程を修了して博士課程に進んだが、博士論文を提出しないまま2010年に退学となった。(西日本新聞平成30年9月16日付)

 

 これは、あくまで想像です。私は、この男性のことを何も知りません。しかし、この男性の経歴からは、努力の方向性が分からず、勉学に打ち込んだ男の姿が見えてきます。

 高校に進学せず、15歳で自衛官になった後、九大法学部に進学するというのは、珍しい経歴です。一般的には、高校くらいは出そうと思う親が多いでしょう。男性が、中卒で自衛官になったのは約20年前。すでに、高校進学率は95%を超えていたはずです。後に九大法学部に進学するのですから、決して勉強ができなかったわけではないでしょう(もちろん、自衛官を退官した後、一念発起した可能性もありますが)。

 となると、この男性が育った家庭は、あまり裕福ではなかったのではないかと思います。高校にも進学させられないほどの貧困家庭か、もしくは、そこまでの極貧ではなかったとしても、子供を高校に進学させるという判断ができない両親に育てられたのではないでしょうか。それに、裕福だったのなら、経済的に困窮しても、実家に頼ることができたでしょうし、両親が他界していたとしても、持ち家などの財産を相続していてもおかしくありません。しかし、財産はおろか、兄弟などの頼れる身内すらいなかったということなのでしょう。

 そのような状況から、猛勉強して、九大法学部へ進学し、大学院の博士課程まで進み、文献の校正ができるほどのドイツ語を身に付けたのは、本人の努力の賜物です。

 しかし、彼の努力の方向性は正しかったのでしょうか。

 

 大学に進学する人の大半は、学問を目的として進学するわけではなく、就職を目的として進学するのです。自殺した彼も、大卒資格は就職のためと割り切って、大学生の頃に、就職活動をしていれば、経済的に破綻することもなかったと思います。

 しかし、中卒で自衛官になった後、猛勉強して九大法学部に進学した彼は、大学で、遊ぶ気にもなれなかったでしょう。さりとて、なにか努力しようと思っても、学問以外で何を努力すれば良いかも分からなかったのではないでしょうか。

 そのため、のめり込むように学問に打ち込み、その流れでポストの乏しい研究職を目指すようになってしまった。

 

 「文化資本」という言葉があります。

 裕福な家庭に生まれた子供は、親から、資産だけではなく、努力する習慣も学ぶというやつです。それ以外にも、社会常識、立ち居振る舞い、お金の使い方など、親から引き継ぐ無形資産は数多くあります。裕福な家庭の方が、大学進学率が高いとか、偏差値が高いというのは、単なる資金力の差ではなく、この「文化資本」が影響していると言われています。

 そして、「大学で何をするか。」というのは、この文化資本の差が決定的に現れる場面だと思うのです。

 大学というのは自由です。学問の場といっても、ほとんどの文系学部では、漫然と講義に出て単位を取っても、体系的知識は身に付きません。しかも、仮に、体系的知識を身に付けたとしても、それが仕事に直結するわけでもありません。周囲を見渡せば、単位さえ取れれば良いと考え、バイトに勤しむ人、恋愛に現を抜かす人も珍しくありません。将来の仕事のことを真面目に考えようと思っても、世の中にどんな仕事があるのか、そのために何を努力すれば良いのか、明確ではありません。

 そんな環境で、どう時間を使うか。これは、親が大卒か否かによって、相当変わってくると思います。親から、大学における努力の方向性を示唆されている学生の方が、圧倒的に有意義な大学生活を送れるのではないでしょうか。

 

 私自身、大学3年生の頃に、司法試験の勉強を開始しましたが、これは、親が大卒でなかったことが相当影響していると思います。

 「これからは大学ぐらい出ていないと」と考える両親の方針により大学に進学したものの、大学の講義に出ても、将来の仕事に役立つスキルが身に付くわけではないのは明らかでした。かといって、高校では、勉強勉強の毎日だったのに、大学生になった途端、バイトや恋愛や遊びが意外と将来のためになるという真実に気づけるわけもありません。そして、世間からは、それなりの大学を出ていても、それだけで良い就職先があるという時代ではないという声も聞こえてきます。

 では、どうすれば良いのか。大学生は何を努力すれば良いのか。どうすれば自分の向かう道が見えるのか。誰も教えてくれませんし、親には大学がどういうところか分かりません。「有名な大学を出れば良い就職ができる。」以上の発想はなかったのです。

 そう考えて、選んだのが司法試験でした。

 今から考えると短絡的な選択だったと思いますが、同じ結論に至る人は珍しくないのではないでしょうか。資格試験というのは、大学入学を目標に勉強してきた高校時代の延長線上で考えやすいからです。ペーパーテスト合格を目標に、黙々と勉強する。そして、合格したら、それがそのまま仕事になります。

 しかも、司法試験の場合、就職活動をする前に、司法修習に行く必要があります。つまり、合格さえすれば、自動的に進路が確定します。もちろん、その後に就職活動が待っているのですが、私が司法試験を目指し始めたころは、まだ合格さえすれば、ほぼ全員に就職先がある時代でした。

 

 しかし、今から考えると、私の選択は間違っていたと思います。

 今、弁護士になって後悔しているという意味ではありません。運よく、それなりの収入が得られましたし、将来に希望を持って生活できています。

 ただ、もともとの私の性格を考えれば、弁護士よりも適性のある仕事も無数にあったでしょうし、そのための努力は、司法試験よりも少なくて済んだと思います。そして、それなりの収入を得て安定した生活を送る方法も、今なら、いくらでも思いつくのです。

 結果的に合格できたから良かったものの、合格するかどうかも分からない試験のために、大学院まで進学し、20代後半まで、まともに働くこともなく、年齢を重ねていくのは、自殺行為でした。一歩間違えれば、私は、九大に放火して自殺した人と同じ運命を辿ったかもしれないのです。

 

 親が裕福でなくても、学歴がなくても、自分が努力すれば、九大でも東大でも入れます。

 しかし、果たして、その後はどうでしょう。

 同世代が一律に勉強に打ち込んだ時代は去り、努力の方向性が問われるようになります。

 また、仮に、自殺した元九大院生が経済的に成功していたとしても、彼は幸せになれたでしょうか。幸せになるのには、研究者になることも、ドイツ語を習得することも不要なのです。そっちの方向へ努力していた彼は、自分の中の幸せの条件に気づいていたのでしょうか。

 親から幸せを与えられた人は、何が揃えば幸せでいられるか、人生の早い段階から知っています。親から幸せの条件をも受け継ぐことができるのです。しかし、そうでない人は、どうなれば幸せなのかということに迷走せざるを得ないのです。

 

 親から受け継いだ「文化資本」の差は、大人になっても、ずっと影響します。

 私は、運が良い方だったと思っています。

司法試験は合格者の質が下がった!?

 司法試験の合格者数が1500人を維持したことで、一部法曹から、合格者の質の低下を懸念する声が出ています。

 たしかに、年々受験者数が減っているにも関わらず、合格者数を維持するということは、昨年なら受からなかった人が、今年なら受けるということを意味します。

 これに対して、昔、旧司法試験の合格者数が500人から増やされたときも、さんざん質が落ちたと言われていたけど、その時代の人たちが、法曹として低レベルと評価されているわけではないのだから、根拠のない言いがかりではないかという声もあります。

 

 私の意見としては、どちらの主張も、一定の合理性があると思っています。

 法曹のなかに、司法試験そのものの廃止を主張する意見はありません。ですから、司法試験に能力担保としての機能を期待しているのは、全員の共通認識のはずです。ところが、どれだけ受験生が減少しても、1500人を維持するというなら、能力担保の機能が果たされているのかを懸念するのは当然のことでしょう。

 しかし、他方で、司法試験というのは、昔から、政策上の理由で合格者数が決められてきました。それが能力担保として疑いを持たれなかったのは、受験者数に対して合格者数が圧倒的に少なかったからです。

 ただ、受験者数に対して合格者数が圧倒的に少なかったからといって、それが能力担保として、「正常に」機能していたとは言い切れません。昔の旧司法試験は、法曹として十分な基礎能力をもった人でも不合格になる可能性のある試験でした。それに、旧司法試験の論文式試験は、新司法試験に比べて、受験生の実力を適切に判定できるものではなかったように思います。

 ですから、合格率だけを見て、質が落ちているとは断定できないと思うのです。

 

 私は、むしろ、合格後、弁護士になった後の環境の方が問題だと思います。

 弁護士間の競争激化によって、現在、弁護士の専門分化が進んでいます。特定の事件を集中的に処理する事務所に就職すると、安定した実力が身に付きにくいのではないでしょうか。

 また、弁護士の人数が増えることで、国選刑事弁護や破産管財人の配点数が減ると、なかなか経験が積めません。

 さらに、最近は、弁護士の委任事務処理の範囲をできるだけ限定する事務所もあります。つまり、交渉はするが、訴訟はせず、交渉段階で和解に落とせる事件を大量処理して稼ぐような業態の事務所です。これだと訴訟の実力は身に付きませんし、事前の見通しを立てずに、とにかく交渉してみるという方針になりがちです。

 司法試験という単発試験で測る能力が高いか低いかよりも、合格後に経験を積む機会が不足していることの方が、もっと大きな問題ではないでしょうか。

司法試験に1525人合格

 司法試験に合格された方、おめでとうございます。

 なんだかんだで、まだまだ良いところの沢山ある業界ですから、将来のため、気合を入れて修習に臨んでください。

 

 平成30年度の司法試験合格者数は1525人となりました。

 合格率は29.11%で、3.25ポイント上昇とのこと。

 毎年受験生は減り続けるので、合格者数が同じだと、合格率はどんどん上昇していきますね。

 今年は、合格者数が減らされるのではないかという噂もありました。

 しかし、司法試験は国家試験ですから、やはり政府目標を無視するわけにはいかないのでしょうね。

 政府目標は1500人堅持ですから、おそらく、今後、この目標が修正されない限り、合格者数の減少はないのではないでしょうか。

 このまま、志願者が減少し続ければ、いずれ1500人を維持できなくなる可能性がありますが、その場合は、そうなる前に、まず政府が目標を修正するでしょう。

 合格発表時に、サプライズで合格者数が減少するということは、将来的にも、おそらくないのではないかと思います。

 

 司法試験に合格すること自体は、どんどん簡単になっていると言えるでしょう。

 しかし、それによって、能力のない新人が来るとは思っていません。

 逆に、法律の勉強に時間を割かなくて良くなった分、それ以外の能力を身に付けた若者が大挙して参入してくる可能性があると思っています。

 法律の勉強で精一杯だった身としては、脅威に感じています。

 新しく参入してくる人たちに負けないよう、身が引き締まる思いです。

医療がサービス業だったら、患者を待たせてはいけないのか

 なぜ日本の病院は患者を待たせて平気なのかという週刊現代の記事を見ました。
 すでにネット上では反論も出ており、アメリカでは待たせない代わりに医療費が高いとか、フランスでは「バカンスだから予約は3週間後」とか、それぞれの国の医療事情には一長一短があるようです。

 この問題は、医療制度という国家政策にもかかわりますし、医師の人手不足、長時間労働にも関係します。病院の努力不足と言ってしまうのは乱暴です。

 

 しかし、個人的に気になったのは、次の部分です。

『「いい病院」「悪い病院」の見分け方』の著者で、病院のコンサルティングも行う武田哲男氏は「そもそも病院には『サービス業』という視点が欠如している」と語る。
「どの企業でも一番大切にするのが『顧客満足度』です。普通の企業だったら、お客さんに満足してもらえるように、商品を改良し、より使いやすくするなど努力するのは当たり前のことです。
でも病院は違う。何もせずともお客さん=患者が来るし、どのような診療の仕方でも同一の治療なら同じ報酬が受け取れるため、営業努力を怠っている病院があまりに多い」

 なぜ、「サービス業」だからといって、顧客を待たせてはいけないのでしょうか?

 そもそも、営利企業のサービスにおいて、顧客満足度が大切にされるのは、顧客に来てほしい企業側より、選ぶ顧客の立場が強いからに他なりません。ある程度独占的地位を築いている企業でも、マス(大衆)を相手にする業態だと、より多くの顧客に来てもらい、より多くの利益を上げたいと思うので、顧客満足度を大切にするでしょう。

 つまり、サービス業で顧客満足度が大切にされるのは、通常、顧客の方が、力関係において上位にあるからにすぎないのです。

 したがって、同じサービス業であっても、放っておいても客が来るし、今程度の利益で十分と考えており、より多くの利益を上げたいとは思っていない場合なら、顧客より事業者側の立場が上位になるのですから、顧客満足度などというものを大切にしないのは当然のことではないでしょうか? 

 我々は、普段、営利企業の快適なサービスに慣れきっていて、サービス業=顧客に快適を提供するために努力するものと思い込んでしまっています。しかし、「医療サービスは提供するが、待ち時間の快適さは提供しません」というスタンスもありだと思います。契約というのは、本来は対等な立場でするものですから。

 それに、普段、我々は、顧客という立場で営利企業の快適なサービスを享受しまくっているのですから、立場が逆転したときは、待たされるくらい我慢したら良いと思うのです。消費者として神様扱いされるだけでは飽き足らず、病人になってまで神様扱いされたいのでしょうか。

 

 それにしても、専門職の一人として、この記事には色々考えさせられます。

 医療サービスにおいて、病院での待ち時間は「サービスの周縁」です。もちろん、「サービスの中核」は医師の専門知識であり、専門技術です。

 ところが、「サービスの中核」は素人には判断できません。

 そのため、素人目に明らかである「サービスの周縁」ばかり注目され、時には社会的な批判を浴びることになるのでしょう。

 しかし、「サービスの周縁」を充実させるためには、「サービスの中核」を削るのが一番手っ取り早いのです。「顧客満足度」と言いますが、専門的サービスでは、待ち時間とか、アクセスの良さとか、内装の綺麗さとか、職員の礼儀作法とかで「顧客満足度」が決まり、決して「専門知識・技術」では決まりません。「顧客満足度」を追求し始めた病院が、「顧客満足度」では判定できない専門領域を疎かにしていないというのは、薄甘い期待だと思います。

 医療であれば、適当な診療をして、バカスカ患者を捌いていけば、患者を待たせることもなくなるでしょう。

 そして、そのような診療をしたところで、9割9分の患者にとっては、特に問題がないと思うのです。なぜなら、適当に診療をするといっても、一応、医師が診るわけですし、人間には自然治癒力もありますし、もともと風邪などの軽傷の患者もいるからです。そうそう問題が顕在化するものではないはずです。

 したがって、表面上は、待ち時間が少なくなり、患者は大喜び♪♪

 困るのは、そのような体制の医療によって、見落とされたり、手を抜かれたりした運の悪い一部の患者だけですが、それで良いのかという話ですよ。

新卒の採用活動は完全自由化で良いのではないか

 経団連会長が「経団連が採用の日程に関して采配すること自体に極めて違和感がある」と、就職活動日程のルールを撤廃すべきという考えを示して話題になりました。

 経団連としては、経団連に加盟しない企業は、早期の採用活動で優秀な学生を囲い込むことができるため、ルールを順守する企業が採用に出遅れるのではないかと危機感を持っているのでしょう。

 

 基本的に、個々の企業の問題である採用活動について、経団連という民間団体が采配することに根拠はないと思います。

 たしかに、ルールがなければ、優秀な学生の採用は早い者勝ちになるため、どんどん就活が前倒しになり、学生の学業に支障が出るという意見もあります。

 しかし、学生の勉学は、学生の個人的事情であり、企業が配慮すべき事柄ではないと思います。それによって、学生が勉学を疎かにすれば、社会的な損失ではありますが、その損失を発生させている責任は企業だけにあるのでしょうか。

 仮に、大学が、勉学を疎かにした学生を卒業させなければ、企業は、前倒しで採用活動をするでしょうか。実態として、就活に現を抜かしていても卒業できるからこそ、企業は前倒しで採用活動をするのでしょう。

 また、仮に、大学における勉学を企業が評価していれば、前倒しで採用活動をするでしょうか。大学の後半という本格的に勉学をすべき時期に就活している学生よりも、4年間みっちり勉強した学生を採用しようとするのではないでしょうか。

 つまり、結局のところ、大学にも責任があると思うのです。必ずしも、「勉学を妨げる」などと企業を一方的に非難できる立場ではないでしょう。

 

 それに、新卒一括採用という慣行にも、ずっと以前から批判があるところです。

 大企業は、いまだ優秀な若者を早期に囲い込みたいようですが、その慣行がいつまで維持できるか分かりません。もうそろそろ難しくなってくるのではないでしょうか。

 少子化によって、若い世代の人口は減り続けています。優秀な人材を確保するのに、職歴のない新卒者だけをターゲットにするのでは足りない時代が来ると思います。

 そうなると、どの企業も、通年採用を検討せざるを得ません。すでに、そのような方針転換をしている企業も多いはずです。

 そもそも、経団連加盟企業が、採用ルールを順守しなくて良い非加盟企業に出し抜かれることを心配して、採用活動を早めたいと考えるのは、採用市場において、経団連加盟企業の競争力が相対的に低下しているからに他なりません。

 学生側は、少しでも良い企業に就職したいでしょうし、優秀な学生であればあるほど、将来のキャリアを真剣に考えているでしょうから、経団連加盟企業に魅力があるなら、少々採用活動が遅くなろうと、学生に選ばれるはずなのです。

 経団連の採用ルールといっても、大学在学中に採用活動を開始することには違いなく、大学の学業との関係では、決して遅いスタートというわけではありません。それをさらに早めなければ、優秀な学生を外資などに取られてしまうというのなら、それは、採用時期云々以前に、採用市場における企業側の魅力が低下しているということでしょう。

 つまり、就活ルールを撤廃したところで、それらの企業が、今後も旧態依然とした新卒一括採用を継続し続けらえる可能性は高くないと思うのです。

 そうであれば、就活ルール自体、もう廃止してしまっても良いのではないでしょうか。