事件関係者のプロフィールが報道されなかったらどうなるか

東海道新幹線車内で男女3人が死傷した事件で、被疑者の自殺願望や精神科受診歴、家族に対するインタビューなどがテレビ報道されていますが、一部には、このような報道姿勢に対して批判的な意見もあるようです。

これまでも、社会で重大な事件が起こるたびに、マスコミの報道姿勢が批判されてきました。殺人事件では、加害者の中学時代の文集が報道されたりしますが、遠い過去の子供のころの文集に犯行との関連などあるのでしょうか。成人した加害者の親にインタビューなどする必要はあるのでしょうか。被害者の人柄が報道されることもありますが、被害者にプライバシーはないのでしょうか。

私も、かつては、このようなマスコミの報道姿勢には批判的でした。とりわけ、アニメや漫画などのサブカル好きだったこともあり、若い頃は、アニメと犯罪を結びつけるような報道に不快感を抱くこともありました。

しかし、よく考えてみれば、当事者や関係者の人柄やエピソードがなければ、事件報道というのは、途端に抽象化されてしまうのではないでしょうか。「ある日、某所で、AさんがBさんを殺しました。どういう人かは分かりません。」という情報には、だれも興味を示さないでしょう。

そして、事件報道においては、大衆の興味関心を惹くというのが、実は、視聴率などの報道機関の利益になるというだけではなく、社会公益的にも重要なことなのではないでしょうか。

 

そもそも、テレビや新聞で報道される事件事故というのは、そのほとんどが、我々の日常生活に直接関係のないことです。殺人事件はもちろんですが、たとえば、東日本大震災のような大規模災害でさえ、当時、西日本に住んでいた私の生活には直接的影響を及ぼしていません。個々の事件というのは、基本的に、赤の他人には影響のない事柄なのです。(だからこそ、被害者に対する過熱報道も批判されるのでしょう。事件とは無関係の第三者に詳細を知らせる必要があるのかという意味で。)

しかし、この社会で日々どのような事件が発生しているのか、我々は、社会人として、知っておく必要があると思います。一人一人の生活には無関係な事件であったとしても、各自が社会で起きている事柄を知り、共通認識としておくことは、必要不可欠なことではないでしょうか。

そして、その情報というのは、日常生活で、テレビや新聞、ネット等から、自然に入ってくる方が望ましいと思うのです。なぜなら、そうでなければ、我々は、自ら調べて情報を収集したりはしないだろうからです。

たとえば、警察は刑事事件の統計を取っており、裁判所が公開する訴訟記録には、事件の詳細も記録されています。そのデータをネットで公開すれば、だれでも、自宅から、ネットで事件情報にアクセスすることができるようになるでしょう。しかし、仮に、テレビや新聞が事件報道をしなくなれば、いったいどれだけの人が、わざわざネット検索して、事件に関する情報を得ようとするでしょうか。

このように考えると、テレビや新聞が視聴者の興味関心を惹くために、さまざまな個人情報を取材し、報道することにも、社会的意義があるのではないでしょうか。そうすることによって、多くの人が事件に関心をもち、この社会で何が起きているのかを、社会全体で共有することができるのですから。

そして、テレビが視聴率を、ネットがページビューを稼ぐために、大衆の興味を惹く情報を報道したがるのも、広告料収入に頼っている構造上、致し方のないことだと思います。広告料収入があるおかげで、我々は、タダでテレビやネットの情報を得ることができるのです。このタダで手に入るというのは、社会全体に同じ情報を拡散し、全体で共有するためには極めて効果的であり、有料で情報を提供するようになった途端、偏在が生じることになるでしょう。

以上のような理由で、最近は、報道機関が実名報道にこだわり、関係者のプライバシーを報道するのにも、一定の大義はあるのではないかと思うようになりました。

たとえば、今回の事件で言えば、どんな人が殺されたか、どんな人が殺したのかという情報を発信しなければ、一瞬で報道は沈静化したでしょう。その情報なしに大衆の興味関心は持続しないからです。ところが、この事件を契機に、新幹線に手荷物検査や身分証明書確認を行うべきかという大事な議論において、大衆が事件に関心を持たないのでは不都合ではないでしょうか。なぜなら、実施が正解だとしても、大衆の支持が得られず、実現しないかもしれませんし、実現しても、その必要性が理解されず、現場でクレームが発生するかもしれません。

もちろん、社会人として、社会問題に関心を持ち、野次馬的報道がなくても、自ら情報を収集する姿勢が望ましいのですが、結局、それは理想論に過ぎず、全員に期待できることではありません。であれば、大衆に広く情報を拡散し、関心を持たせる報道は、やはり、一定の社会的役割を果たしていると言えるのではないでしょうか。

 

成人した加害者の親がテレビカメラに向かって謝罪するのは筋が通らないと思いますし、死んだ被害者の葬式に報道陣が押し掛けてくるのは、さぞ迷惑だろうと思います。マスコミの報道姿勢を全面的に擁護するつもりはありません。

しかし、実名報道やプライバシー報道の社会的な意義を考えずに、望ましくないものと言い切ることには疑問があります。もちろん「社会的に意義があれば、被害者のプライバシーが侵害されても良いのか。被害者には関係ないじゃないか。」という考え方もできますが、そのような結論を取るとしても、プライバシーを尊重しつつ、報道の価値を維持するためにはどうすれば良いかを、同時に考えるべきではないでしょうか。